自分史

自分史の書き方例(小学校時代)トラウマの改善に着手した記録

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あなたは、本当はもっと自分に才能があると思っていませんか?

例えば、コーチングの才能、デザインの才能、商品企画の才能、プレゼンの才能、ブログを書く才能、、、など、一言でいえば「表現によって人の心を動かす才能」があると感じていませんか?

その才能があなたの中に眠っているとします。

それを目覚めさせるために、まずあなたは練習・実践・研鑽を繰り返すことでしょう。

そして、この努力(練習・実践・研鑽)をあなたが納得できる水準までやり切ったとします。

しかし、なぜかまだ才能が発揮されていると思えない。確かに上達はしたけど、どこか自分の力が100%発揮されていない気がする。初めから才能はなかったことにすると、自分の内側で感じているものと不一致が起こる。努力が足りないのかもしれないけど、手応えがない。何か別の要因が働いているのではないか・・・?

このように、才能を発揮するための努力を続けてきたにも拘らず、実感として手応えが得られないとき、「私の力が発揮されるのを妨げる要因」の1つの可能性として、トラウマに向き合う決心をするのではないでしょうか。

この記事では、トラウマを改善することで自分の力(才能・能力・魅力)を無理なく発揮できるのではないか!と考えた私が、トラウマと向き合う決心をして、当時の出来事や感情を整理しながら書いた小学校時代の自分史を紹介します。

1.トラウマ改善における自分史の意味

トラウマ(がもたらす影響)を改善するためには、心理カウンセリングを受けることをお薦めします。

その前提で自分史を紹介する理由は、自分史を書くことが心理カウンセリングを受ける準備になっていたと感じているからです。

私は、自分史を書く → コーチングを受ける → 心理カウンセリングを受けるという順番で問題解決や目標達成を進めてきました。

しかし、元々は「人に悩みや願望を話すことにとても抵抗があった」のです。

できれば誰にも相談することなく、自分の力だけで問題を解決したい。
(そうすれば人に迷惑をかけなくて済むし、情けない自分を知られることもない)

願望は心の中にしまっておいて、不言実行で達成すればいい。
(そうすれば分不相応だと思われることもないし、失敗しても恥ずかしくない)

そんな風に思っていました。

心理カウンセリングで深い悩みを話すことや、コーチングで心からの願いを話すことは私にとって恐怖であり、セッションを受けるのはとても勇気がいる行動だったのです。

しかし、起業のきっかけとして自分史を書いたことによって、以前よりも抵抗なく人に自分のことを話せるようになりました。つまり、私の中でタブーとなっていたことが減り、自己開示できることが増えたのです。

その結果、コーチングや心理カウンセリングをより効果的に受けられるようになったと感じています。

私が自分史を書いたのは2015年でしたが、その時はまさか自分が書いたものをブログに掲載する日がくるとは思ってもいませんでした。

そんな、あなたを少しオープンにしてくれて、人とつながる力を高めてくれることが自分史作成の魅力です。

2.北村の自分史の例(小学校時代)

私がコーチのサポートを受けて書いた小学校時代の自分史を紹介します。質問の答えを書き出すことによって振り返りを行ったので、Q&Aの形式になっています。

Q.小学校の生活全体を通しての印象は?

小学5年生の時にバスケ部内でいじめられていたことの印象が強い。

Q.最も影響を受けた先生は誰ですか? どのような影響を受けましたか?

  • 小学4年~6年の時の担任のM先生(男性)

【受けた影響】
ユーモアのある先生で、生徒からいじられるようなキャラクターだった。小学5年生の時はミニバスでいじめに遭っていたため、気分が塞ぎ込みがちだったが、M先生や他のクラスメイトのおかげで授業の時間内は楽しく過ごすことができていた。

当時は知らなかったが、母親が放課後のミニバスの活動時にいじめにあっていることをM先生に相談したところ、自分の管轄外ということで全く相手をしてくれなかったらしい。社会人になった後でそれを聞いた時は、心底がっかりして嫌悪感を抱いたが、今このタイミングで振り返ると授業の時間が楽しかったからこそ、僕はなんとかミニバスの時間を耐えてしのぐことができたのだと思う。ありがとうございました。

Q.下線部のいじめとは?

小学5年の時に、先輩その他からのいじめに遭っていた(と僕は認識している)。一番印象に残っているのは、走り高跳びのマットが保管されている用具庫の電気を消して、暗闇の中で2チームに分かれてソフトバレーボールをぶつけ合う「遊び」で、開始後いつの間にか僕に集中してボールがぶつけられていた。ボール自体は少し柔らかいものだったので、大きな怪我をすることはなかったが、暗闇の中で周り全員が敵に思えてどこからボールが飛んでくるかわからない状況は、当時の僕にとって(というか今の僕であっても)精神的に辛いものだった。

また、いじめは基本的に監督がいない時に行われることが多く、バスケの練習中に僕だけボクシングのシャドーのようなことをN先輩から強要されていた。これも非常に不快で理不尽だと思った。N先輩から見ると僕は体型がやせていて、軟弱に見えたので鍛えたいと思った?のかも知れない。

Q.下線部「母親が…」について、なぜ、先生はそう言ったと思いますか?

ミニバスは放課後の体育館を借りて、同級生や先輩の父親が監督やコーチを務めており、ボランティアのような形態で運営されていた。そのため、小学校の先生からすると管轄外で口を出しにくかったのだと思う。

まれに自分の管轄外のことに対しても行動を起こす人がいるが、M先生にはそこまでの勇気や強い動機はなく、問題に首を突っ込んでごたごたに巻き込まれるリスクを避けたかったのではないだろうか。その分、自分の担当領域である学校の授業を楽しくしようと色々工夫されていたのかも知れないが、本当のところは本人に直接聞いてみない限りわからない。

Q.あなたは小学校のころ、どのような生徒でしたか?

勉強はできたが、性格に少し歪んだ部分があり、内面的に何か悩みを抱えていた生徒

小学校高学年の時に、担任のM先生がある授業を自習にして、「何をしてもいい(何の勉強をしてもいい)」と言ったところ、僕は窓ガラスに石をぶつけたことがあった。(窓ガラスが割れるほどではなかった。割れない程度にやったと思われる。)当然ながら僕は先生から怒られたが、その時に「何をしてもいいと言ったじゃないか」と屁理屈をこねたという話を母親から聞いた。

Q.下線部「性格に…」は、誰かに言われたのか?

「性格に少し歪んだ部分」は自習で何をしてもいいと言われた時に、窓ガラスに石をぶつけた行為から感じました。おそらくこれは僕なりの(いじめに対する?M先生への?)SOSだったのではないかと思います。

「内面的に何か悩みを抱えていた生徒」はいじめに遭っていたため、僕が外からそう見えていたのではないかという想像で、誰かに言われた訳ではありません。


Q.どんな遊びをよくしていましたか?

小学2年生のころはガキ大将のような存在で、新聞紙で剣や盾をつくって戦いごっこをしたり、庭にガンダムの消しゴムやプラモデルを持っていってクラスメイトと遊んだりしていた。ガキ大将といってもジャイアンのような腕力にまかせるタイプではなく、ゲームのルールを自分で考えて提案してみんなで遊んだりするなどして仕切っていた。

また、小学校に入学したあたりから祖父や父に将棋を教えてもらい、プロ棋士の本を10冊程度読んで学習していった結果、祖父も父も自分に勝てなくなり、毎週木曜日に公民館に連れていってもらい大人や上級生と将棋を指していた。ここではなかなか勝つのは難しかったが、地元のテレビ局が主催した石川県の将棋トーナメントの小学2年生の部で優勝してTVに出るなど、この当時の同年代の中ではかなり強かったと思う。

Q.下線部で、なぜそこまで将棋にはまった?

それぞれの駒が違う動きをすること、敵の駒をとったら使うことができること、敵陣に入ったら駒の動きが変わることなどのルールが独特で、相手の手を読む戦略的な要素があって面白いと思ったから。また、限りなく多い指し手のバリエーションがある中で、定石のような指し筋や守備の陣形を考案しているプロ棋士がすごいと思っていたから。

学校の勉強が得意だったので、こういう思考を伴うことに対しても得意意識があったため。祖父や父を負かすことが楽しかったから。(祖父や父は最初の頃、わざと僕に負けてくれていたと思うが、途中から本当に勝てなくなった)

Q.一番よくできた教科は? なぜ、よくできたと思う?

算数と理科。法則を理解して応用する科目が得意だったと思う。

Q.一番苦手だった教科は? なぜ、苦手だったと思う?

強いて言えば図画・工作? 特に苦手意識を持っていた科目はなかったと思う。

Q.両親はあなたの教育について、どのような姿勢でしたか? 何故だと思いますか?

あまり口を出さなかったと思う。宿題については、帰ってから数分で終わらして、すぐ友達を呼びにいくというフットワークの軽さだった。漢字の書き取りで、一番上に大きく漢字を書いて、下に10回練習で書くというものがあったが、僕がものすごいスピードで間違った漢字を10回書いて遊びに行こうとした時は、さすがに母親からもう少し注意してやるように言われた。小学校低学年の頃、両親から?「遊びの天才」と言われていたような記憶がある。

Q.下線部は、宿題を自分でやるから?

必要最低限しか勉強しなかったが、遊びに行く前に宿題を終わらせており、学校の成績も良かったから。


Q.あなたは小学生のころ、どんな役割を経験しましたか?

6年生の時に、ミニバスケットボールクラブのレギュラーになった。社会人になってから母親に聞いた話だが、実力的には僕と同等以上のチームメイトもいたが、レギュラーを決める際に当時の監督やコーチが話し合い、僕がチームで一番真面目に練習に取り組んでいたことから、「このチームは勝っても負けても卓也と心中する」と言ってレギュラーにしてくださったそうだ。結果、県大会では準優勝で全国にはいけなかったが、北信越大会では優勝することができた。

Q.下線部「一番真面目に…」の自覚は? なぜ、そんなに熱心だった?

僕は、小学6年生になって先輩が卒業してからはいじめられなくなった。先輩がいた時は、いじめられるのではないかという思いから練習中も不安だったが、6年生の時はその不安がなくなったため、練習に集中して打ち込めるようになった。

僕は先輩が卒業していじめられなくなったが、本質的に僕自身が変化しているわけではないとわかっていた。僕が本当に「もういじめられることはない、大丈夫だ」と安心するためには、周りのチームメイトから認められることが必要だと思っていた。バスケ部においては、バスケが上手いことが周りから認められる一番大きな要因となる。その上でさらに練習に取り組む姿勢が一生懸命であれば、僕が人から嫌われる可能性は限りなく小さくできると考えた。

よって、僕が多くの部員の中で「一番真面目に練習に取り組んでいた」とまで言われるのは、①バスケが上手くなって周りから認められることで安心を手に入れたかったから。②一生懸命練習に取り組むことでチームメイトから認められたかったから。という2点が理由だと思う。

北信越大会で優勝するチームなので、練習も生易しいものではなかったが、いじめから受けた精神的・身体的な苦痛と比較すると、練習の厳しさは全く苦にならなかった。これ以降、人生のさまざまな場面で辛い出来事に遭遇した時(社会人1、2年目など)も「小5の時と比べたら今の方が全然まし」と思えるようになった。

Q.下線部「このチームは勝っても負けても…」を知ってどう思った?

僕がどれだけ一生懸命練習に取り組んでいても、他のレギュラー候補のメンバーと大きな実力差があったらレギュラーには選ばれていなかったと思う。どちらをレギュラーにするか迷った時に、最後の最後で練習に取り組む姿勢が評価されてレギュラーに選ばれたのだと思った。監督やコーチが僕の取り組み姿勢を評価してくれたことは素直に嬉しかった。実力以外のそういう部分が決め手になったことが驚きで奇跡だと思った。(僕が小、中、高で所属していたバスケ部はいずれも実力主義という印象が強かったから)

しかし、ここで実力の定義をプレイヤーとしての能力ではなく、チームに与える影響力と考えると納得できる。チームメイトが試合で特に活躍して欲しいのは、普段一生懸命に努力している選手だ。ベンチには試合に出られないメンバーも沢山いて、そんなメンバーの思いを受けてレギュラーは試合に出させてもらっている。

生まれつき体格や運動神経に恵まれている人もいれば、そうでない人もいる。才能に溢れるプレイヤーの活躍をチームメイトは尊敬の眼差しで見る。努力を重ねたプレイヤーの活躍にチームメイトは自分を重ねることができる。才能は後天的に開花するものもあると思うが、生まれつきの部分もある。努力は個人の取り組み方次第で工夫できる。

チームメイトは皆厳しい練習を耐えてきているので、努力を重ねたプレイヤーが活躍すると、自分も練習をがんばれば試合に出て活躍できるかも知れないと希望を持てるし、自分の努力を肯定できる。そのため、努力を重ねたプレイヤーの活躍は共感を生みやすく、チーム全体に勢いをもたらす。僕にはプレイヤーとしての能力以外に、そういった影響力があり、そういった見えにくい部分も含めて評価してもらえたことを非常に有難く感じた。

Q.その経験は、どう生かされていますか?

当時の僕はプレッシャーに強い方ではなかったと思う。試合を経験していく中で、プレッシャーがかかった状況の中で力を発揮することの難しさを体験することができた。北信越大会の準決勝でミドルシュートを2本決めた時に初めてプレイヤーとしての小さな手応えを感じた

Q.下線部、プレイヤーとしての「小さな手応え」とは?

僕はレギュラーになってからも、試合に出ると緊張して動きが固くなってしまいパスミスなどが多かった。ミドルレンジからのシュートは得意だったが、試合で決める十分な自信を持てていなかったため、試合ではあまり積極的にシュートできていなかった。この試合では、練習通りにシュートを打つことができて、結果を残せたので自分の中で自信になった。

ここでの「小さな手応え」とは、練習通りのプレイができて結果を残せたことと、自分のプレイでチームの勝利に貢献できたという実感だった。僕のチームには県内外でも有名なスタープレイヤーがいたので、それまでは特に、彼(や他のメンバー)の力で試合に勝ったという印象が強く、できるだけ彼やチームの足を引っ張りたくないという思いがあった。この試合では自分の活躍がチームの勝利に影響を与えたという実感を得られて嬉しかった。


Q.小学生のころ、最も印象深い行事は何ですか?

林間学校でキャンプファイヤーやマイムマイムをやった時に、なぜか桃太郎の劇をやったのを憶えている。役決めの時に僕は「キジ」を選んでいて、桃太郎でも鬼でもイヌでもサルでもなく、「キジ」を選ぶあたりが、なんとなく当時の僕らしいなと思い印象に残っている

Q.下線部はなぜ?

この当時の僕は主役や悪役をやるだけの度胸や自信をもっていなかったので、「桃太郎」や「鬼」は除外される。「おじいさん」「おばあさん」や「その他大勢」のような役も嫌だったので、必然的に「イヌ」「サル」「キジ」のどれかが候補になる。

まず「イヌ」だが、イヌは従順で桃太郎の忠実なしもべというイメージがある。桃太郎の家来になるのは嫌だったのでイヌは除外される。次に「サル」だが、サルは進化前の人間で知性が低いというイメージがある。サルが進化して人間(桃太郎)になったと考えると、サルは進化前の桃太郎ということになり、桃太郎のダウングレード版のように感じるのでサルも除外される。

すると最後に「キジ」が残る。キジは空を飛ぶことができて嘴というオリジナリティ溢れる武器を持っており、着想やひらめきを感じる。また、その姿もスマートで美しい印象がある。総合力では桃太郎に及ばないかも知れないが、飛行して鬼ヶ島を偵察するなど、明らかに桃太郎にはない能力を備えている。

物語の中では、桃太郎の家来という位置づけだが、唯一、桃太郎と対等なパートナーシップを築ける可能性があるとすればそれは「キジ」である。当時の僕がそこまで考えてキジを選んだかはわからないが、上記のような価値観が何か影響していると感じました。

Q.夏休みなどの思い出で、印象深い出来事は何ですか?

低学年の時に昆虫やザリガニが好きで、飼育箱でクワガタやザリガニやミドリガメを大量に飼育していたが、祖母が庭に除草剤を散布した時に、風にのって除草剤が飼育箱の中に入ってしまい、ザリガニやミドリガメが全滅したこと。当然その後、祖母にクレームをつけて怒った。

Q.どんなやりとりだった?

僕が祖母の不注意を一方的に怒り、祖母がひたすら謝るというやりとりだった。祖母に悪気がないことは自分でもわかっていたが、昆虫やザリガニがとても好きだったこともあり、祖母の不完全性を責めるような言い方だったと思う。

Q.家族との休日の過ごし方はどうでしたか?

カブトムシを捕りに車で行ける近くの雑木林に行ったり、ザリガニを捕りに田んぼの横の水路に連れていってもらったりしていた。高学年になってからはミニバスの練習や試合に行くことが多かった。

Q.その時、どんな思いだった?

ペットショップで昆虫を買ってもらうのも嬉しかったが、実際に自然の中で捕まえることがより楽しく満足度も高かったので、ザリガニとりに連れて行ってくれるのは嬉しかった。カブトムシとりにも行ったが、一回も捕まえることができなかったので、内心両親のリサーチ不足ではないかと思っていた。もっと山奥の雑木林に行けばとれそうなのに、そこまでするのは面倒だから近場で済ませようとしているのではないかと疑念を持っていた。


Q.印象深い両親との思い出は何ですか?

小学5年生の頃、僕が部活でいじめられて泣く泣く帰ってくると、両親の寝室に行き、母親になぐさめてもらいながら眠った。学校に行くのも嫌な時があり、集団登校の待合せ場所で僕が元気をなくしていると、母親がいきなりおしくらまんじゅうを始めて僕をなんとか元気づけようとしてくれた。

小学2年生のある日、通学路でダンボールに入れて捨てられていた子猫を発見し、子猫が僕についてきて学校まで来そうになったため、自宅に引き返して今日一日だけこの猫を飼ってもいいかと母親に頼んだ。母親は了承してくれて、子猫はその日以降実家の飼い猫になって「チョンコ」と名付けられた。淡い色の三毛猫で鼻がピンク色のかわいい猫だった。ただし性格は少し強暴。

Q.下線部「母親は了承してくれて」について、どう思った?

母親が猫を飼うことを了解してくれたので、ほっとしたし嬉しかった。僕は一日だけ飼ってもいいかとお願いしたが、一日だけ飼えば愛着が湧いてその後ずっと飼い続けることになるのは想像がついていたし、実際にそうなって母親も何も言わなかったので感謝した。結果的にチョンコは家族の一員のような存在になり、北村家にたくさんの笑顔をもたらしてくれたので、この時の行動は間違っていなかったと感じた。

【追記】
実はこの猫は、家の畑に捨てられていたのを祖父が見つけ、動物好きのご近所さんの家の前に置いておけば飼ってくれるかもしれないと思って移動させた猫だったという話を母から聞いた。なので祖父からすると自分が畑から移動させた猫が、自宅に帰ったらなぜか家の中にいるという状況だった。祖父は猫を飼いたいと思っていなかったが、私が喜んでいたので何も言わずに認めてくれていたことを最近になって知り、とても嬉しかった。

Q.小学生のころ、最も仲のよかった友達はどんな子でしたか?

小学2年生の時のクラスメイトのK君。
優しくて穏やかで思いやりがある子だった。

Q.その子との最も思い出深い体験は何ですか?

K君と妹のSちゃん、K君のご両親と一緒にデパートに行った際、当時流行っていたガンダムのカードダスをやらせてもらった。Sちゃんは背景がプリズムに光るレアカードを出して、僕は普通の女の子のキャラクターカードだった。僕は自分のキャラクターカードが女の子でSちゃんが好きそうだったのをいいことに、より価値が高いとされるレアカードと自分のキャラクターカードの交換をSちゃんに持ち掛けて、Sちゃんのご両親にたしなめられた。

Q.小学生のころ、最も夢中になったことは何ですか?

ファミコンのTVゲーム。特に、RPGのファイナルファンタジー2、3とシミュレーションゲームの三国志が好きだった。ファイナルファンタジーは学校に行く前の朝5時に起きてやるくらい好きだった。当時、祖父母と一緒に寝ており、朝2時に起きてファイナルファンタジーをやり始めた日があったが、4時から5時でものすごく眠くなってしまい、布団に戻ってもう一度寝たことを憶えている。

Q.それが、今どのような影響を与えていますか?

ファイナルファンタジーは、ゲームの中でキャラクターのどの能力を強化するかを選び、どのような能力を持ったメンバーでパーティを構成すると強いチームができるかを考えるのが好きだった。三国志は内政や外交で国力を増強し、より強い敵を倒すことで敵国の武将を味方にしてさらに自軍を強くしていくところが面白かった。

アクションやシューティングも好きだったが、考える要素が多いRPGやシミュレーションゲームの方がより好きで、1人でじっくりゲームを楽しんでいた。また、ファイナルファンタジーのストーリー性の強い世界観や三国志の軍師の計略や武将の一騎打ちに壮大なロマンを感じた。

Q.下線部はなぜ、そこまで好き?

自分が成長させたパーティ(ファイナルファンタジー)や軍(三国志)がものすごくスマートで合理的で完全なものに近づいて成長していくような感覚があったから。最初は弱いチームが困難を乗り越えていく中で成長し、より強いパーフェクトなチームへと変貌し、ついには栄光のエンディングを迎えるというストーリーが好きだったから。


Q.小学生のころ、最も熱中したスポーツは何ですか?

バスケットボール

Q.(保育園を卒業する時の夢がサッカーの選手になることだったので)サッカーは? なぜバスケ?

小学校4年の時に同級生のS君、K君が一緒にミニバスに入ろうと誘ってきたので入った。その当時、僕の小学校にはスポーツ少年団でサッカー部がなかったのでバスケ部にした。小学校5年の時にサッカー部ができたが、ミニバスが名門だったのに対してサッカー部はできたばかりで弱かったことと、1年間ミニバスをやってきた経験があり、もう一度サッカーを始めるとまた0からのスタートになり経験をもったいなく感じたことから、サッカー部に転部することは考えなかった。

Q.それから、どんなことを学びましたか?

バスケットボール以外のさまざまなスポーツに対しても、やる前から苦手意識を持つことがなくなった。真面目に練習に取り組んでいれば、少しずつでも確実に結果が出てくることを学んだ。練習中に声を出すことで、チームや自分の気持ちに勢いがつくことを体感した。

Q.小学生のころ、最もあこがれていたものは何ですか?

布水中学校のバスケットボール部の顧問で、全国大会優勝経験のある角田敏先生

Q.それは、何故ですか?

角田先生は僕が小学6年生の時に、同じ野々市市の布水中学校の男子バスケットボール部を率いて全国制覇を成し遂げており、地域のバスケットボール関係者からその人柄や指導法に絶大な信頼があった。角田先生は布水中学校のバスケットボール部が強いのは、小学校のミニバスでしっかりと基礎を指導された生徒が入部してくることが大きな理由だとお話しをされて、ごくたまにミニバスの練習を見てアドバイスをくださっていた。

僕はレギュラーの中ではそれほど上手いプレイヤーではなかったため、角田先生のもとでバスケットボールに打ち込み優れたプレイヤーになることを夢見て、期待を込めた眼差しで先生のお話を聞いていた。

Q.小学生のころに体験した、最も大きな失敗とは何ですか?

小学4年生の時、バスケットボール部の2軍で少しうまくなり始めていた頃、S君から、「オレのライバルはタクヤだと思う。これからも一緒にバスケをがんばっていこう」という意味合いのことを言われた。少しうまくなって調子に乗っていた僕は、「オレは自分のライバルはI先輩(1つ上の学年の先輩)だと思っている」と言ってS君のライバル宣言を無視した。

このことがS君のプライドを傷つけ、5年生の先輩とも仲の良かったS君が先輩に内容を話したことから、「ナマイキな奴」として僕が1つ上の先輩からいじめられる原因となった。

小学校低学年の頃、近所の友達の家に遊びに行ったところ、留守なのか人の気配がなかった。玄関の脇には、その友達が両親と捕りに行ったカブトムシが飼育箱の中で動いていた。僕はどうしてもカブトムシが欲しくなってしまい、こっそりとカブトムシの雄1匹を盗んでしまった。

その後、カブトムシの雄をポケットにしまい実家に持ち帰ったが、どこで捕まえたのか説明しなければつじつまが合わない。僕は母親を呼び出して、庭の木にカブトムシの雄がいて捕まえたという嘘をついた。しかし実家の周りはカブトムシがいるようなところではない。母親はおそらく僕が嘘をついていることに気付いていたと思うが、何も追及しなかった。結局そのカブトムシを友達に返すことはできず、罪悪感をもち「かわいそうだから」という理由で庭の木に逃がしてしまった。

Q.その失敗から、どんなことを学びましたか?

  • 思いやりのない一言が友達の気持ちを傷つけた結果、その何百倍もの苦痛がいじめとなって返ってきたこと。
  • 誰も見ていないと思って悪いことをしても、自分自身はごまかせない。

Q.ほめられて一番うれしかったことは何ですか?

2014年12月31日時点で思い出せません。

Q.通信簿の通信欄にはどんなことが書かれていましたか?

(*未確認。落ち着きのない子…とか!?)

Q.卒業式の思い出は何ですか?

卒業式の後に学校の校庭を歩いていて、ふと「やさしく かしこく たくましく 未来の日本に役立つ子ども」と書かれた校訓の碑に目が留まった。やさしくてかしこくてたくましい人がいたら本当無敵だな、モテるだろうなと思い、今の自分に不足しているのは「たくましさ」だと思った記憶がある。

3.自分史の書き方例(小学校時代)のまとめ

小学校時代の自分史をご紹介しました。

自分史は人に見せなくても書くだけで十分効果があります。

その効果を一言でいえば「自己受容を援ける」ということです。

自己受容が進むにつれて、自己開示する力が高まります。

そしてもし、たとえ1ページでも、

  • 誰かに読んでほしい
  • 誰かに話してみたい
  • あの人に読んでほしい
  • あの人に話してみたい/聞いてみたい

と、思う瞬間があなたに訪れたなら、ぜひそれを実行してください。

きっと、思い込みに気付いたり、固定観念が緩んだり、新しい自分を発見したり、自分を知ってもらうことで人と親密になる体験ができると思います!

小学校よりも前の幼少期(幼稚園・保育園などの幼児期)の自分史の書き方については、『思い出がよみがえる!6歳までの幼少期の自分史の書き方』の記事をご参考ください。

最後までお読みいただきありがとうございました!

北村卓也 / プロコーチ

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