メンタルコーチは、自分自身の辛い体験をどうやって癒しているのか?

先日、リビングで
友人と一緒にテレビを見ていた時、
政治、外交、紛争の話になり、
友人と意見が分かれました。

詳細は省きますが、

表面上、何もない顔をして、
水面下で紛争の火種をつくっているように
私には感じられた。

そのやり方が許せなかったのです。

怒りを友人に向けて八つ当たりしました。
(本当にすみません)

 

その時、友人から、

「今まで見たことのない顔で怒ってたよ」

と言われました。

意見が合わない友人に対して
怒っているというよりは、

友人を通して見た何かに反応して
怒りが込み上げたという感覚でした。

 

自分の怒りかたがあまりにも反応的だったので、
友人に聞き手になってもらい、
自分が何に反応したのかを内観しました。

その結果、
たどり着いた1つの出来事は、

小学校5年の時に、
私がバスケットボール部でいじめに遭って
辛い思いをしていたことでした。

 

一番辛かった時期、私は、
家に帰ると台所に行き、包丁をもって、
それを自分のお腹に刺すことを想像していました

その痛みと部活動でいじめに遭う苦痛を比較して
いじめの苦痛の方が小さいことを確認し、
いじめを受けていた何人かの先輩が卒業するまで
ひたすら毎日を耐えていました。

 

学校を休んだり、部活を辞めるという選択肢は、
私にとって負けを意味するものでした。

ケンカをして勝てるとも思っていませんでした。

相手が年上で身体が大きく
見えていたこともありますが、
もっと根本的な部分で、

例えば人を殴ることを想像した場合、
私は相手が大嫌いな人間であっても
そこに何らかのためらいや戸惑いが
生まれるのではないかと思いました。

 

それに対して相手は、
殴ること、ボールをぶつけること、
食べたくないバナナを食べるように仕向けること
などに対して、
何のためらいもなく実行できる人間に見えました

例えばボクシングの試合で、
パンチをためらっていれば負けることは、
火を見るよりも明らかです。

そのため、
当時の私がとった選択肢は、
先輩が卒業するまで耐えることでした。

 

部活が始まるまでの私の関心事は、

「今日は監督が来るか」 でした。

監督が来た場合、
表立っていじめは起こりません。

監督が来なかった場合、
苦痛を受けるリスクは高まります。

 

僕が、

やり方が汚ねぇな、こいつら。

と感じていたのは、

監督が来てないとき、
全然まじめに練習していなかった先輩が、

監督が来た途端に、
まじめに練習をしていたふりを始めること。

 

僕はそれが悔しかったし、
許せなかった。

 

だから、冒頭の、

「表面上、何もない顔をして、
水面下で紛争の火種をつくっているように
私には感じられた」

そんなテレビの内容に対して、
激しく怒りが込み上げたのだと思います。

 

では、

私は友人を通して何を見たのか?

この話には続きがあります。

 

小学校6年になると、先輩が卒業し、
私がいじめに遭うことはなくなりました。

そして、中学校に進学しました。

中学校のバスケ部には、小学校の時に
私がいじめを受けていた先輩が、全員いました。

ここでバスケ部に入らないことは、
私にとって一種の負けを意味していました。

 

私は、たまたま先輩が卒業したからいじめに
遭わなくなっただけで、本質的にいじめに
打ち克ったわけではない。という認識でした。

しかも、自分の好きなバスケットボールを、
そんな不条理な理由で諦めるなんてことが、
あってはならないと思っていました。

 

だから私は、中学校でもバスケ部に入りました。

でも、いじめに遭うのは怖い。
もう一度、小学校5年の時のような
苦痛に耐える自信はありませんでした。

私は、いじめに遭わないために、
当時は言語化できていませんでしたが、
2つのことを決めたのだと思います。

 

1.とにかく練習をがんばって、バスケを上手くなろう。

(そうすればいじめに遭わないはずだ。

ただし、
先輩よりも上手くなるのはリスクかも知れない。

チームが100人だとしたら、
上から20~30番目くらいの上手さを目指して、
そこをキープしよう。)

 

2.心を許してはいけない、本心を見せてはいけない。

(いじめの標的になると、

昨日までの友達が、
今日からは敵になってしまうかも知れない。

相手を信頼していればいるほど、
精神的なショックも大きくなる。

だから、
人との間に距離を保って、
本心は見せないでおこう。)

 

この2つの前提によって、
私がいじめに遭うことはなくなりました。

私は一生懸命に練習し、
チームの中で一目置かれるプレイヤーとなり、

先輩はもちろん、
同学年の友達に対しても、

一定の距離感、
それも絶妙な距離感をとる術を覚えました。

 

簡単には心を許さず、
うっかり人の悪口を言うこともなく、
先輩には礼儀正しく挨拶し、
楽しげな笑顔で接する。

でも本心では、

過去に受けたいじめを全く許しておらず
まさに面従腹背という状態。

 

嫌いな先輩に対して、

表面上は笑顔で取り繕って接している自分。
でも、本心では全く相手を許していない自分。

私は、そんな自分のことを好きではなかった。
もっと正確に言えば、認められていなかった。

 

なぜなら、小学校の時の

「監督が来てないとき、
全然まじめに練習していなかった先輩が、
監督が来た途端に、
まじめに練習をしていたふりを始める」

そんな、

表面上の様子と本心が乖離している
「ずるさ」を自分の中にも感じていたから。

 

冒頭の、

「表面上、何もない顔をして、
水面下で紛争の火種をつくっているように
私には感じられた」

そんなテレビの内容に対して、
友人に怒りをぶつけた私が、
友人を通して見たものは、

表面上の様子と本心が乖離している
自分自身の中にある「ずるさ」でした。

 

つまり私は、本質的には、

自分自身の認められていない部分を
テレビの内容や友人とのやり取りを通して、
目の前にまざまざと見た結果、
やっぱりそれが認められなくて、激怒した。

ということだと思います。

 

なんであんな風に怒ってしまったんだろう?

なんであんな言い方をしてしまったんだろう?

と振り返って思うとき、

実は相手の中に
自分の一部を見ていることがあります。

 

この内観に聞き手として
付き合ってくれた友人には、
本当に感謝しかありません。

 

最後に、

私が小学校、中学校のバスケ部での
人間関係に悪戦苦闘している様子を

今、こうして振り返り、
当時の感情を思い出しながら
客観的に見て思うことは・・・

 

私はバスケが好きだった。
でも、嫌な先輩もいた。

それでもバスケを続けたかった。

だから、
多少の笑顔で取り繕って、

ある程度距離をとりながら、

一生懸命練習した。

 

それでいいじゃん!!

 

ということ。

これが、コーチである北村が、
自分自身の辛い体験を癒す方法です。

同時に、
自分自身にOKを出していく方法でもあります。

過去の出来事に新しい解釈を与えたり、
当時の感情を癒すためには、
振り返りからの内観を助けてくれる
聞き手がいることが大切です。

 

また、

いじめに遭わないために、
私がもった2つの前提、

1.チームが100人だとしたら、
上から20~30番目くらいの上手さをキープする

2.人との間に距離を保って、本心は見せない

 

これらは、

起業でビジネスを成長させたり、
コーチングでクライアントとの
信頼関係を築く際には、
ブレーキになることがありました。

こういった前提を再選択する方法について、
もう少し詳しく、

こちらに記載しております

 

現在、上記リンクの末尾から
無料で個別相談を承っております。

ご興味をもってくださった方は、
お気軽にお問合せくださいませ。

 

長い記事になりました。
これからはできるだけ、

好きだった先輩、助けになってくれた
同学年の友達を思い出し、
感謝します。

少しでも、
参考にしていただける部分があれば幸いです。

 

あなたの好きを才能に変える。
クリエイティブコーチ 北村卓也

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